
加藤常昭氏の「黙想と祈りの手引き」をようやく読み終えました。
私は、以前から、祈りについて強い関心を持っていて、出張のたびに土地の教会を訪れ、いろんな方々の祈りの姿に接してきました。しかし自分の祈りは依然として、教えられた祈りの言葉を呪文のように繰り返す空虚な祈りになっているような気がしてなりませんでした。
バスで1時間あまりの場所には黙想の家もあり、以前から行ってみたかったのですが、いまの自分では、言葉だけ形だけの虚しい祈りを繰り返すだけに終わるのではないか、と思い、まだ一度も訪れていません。
私が知りたいのは、祈りの言葉や様式ではありません。言葉や様式を生み出した源である(主イエスを含めた)キリスト者たちの先達の信仰が知りたかったのです。
この本は講演録として出版されたのですが、私にとっては祈りのトレーニングのための本でした。祈りが観念ではなく、人が神様に対してできる唯一の“物理的な”働きかけであるならば、祈りにもスポーツと同様の修練が必要だと思ったのです。
そして、この本は期待通りの本でした。かつて、自分の願いをかなえるための祈りしか知らなかった私にとって、とても厳しい指摘がたくさんありました。
「皆さんが主の祈りを弟子として祈る時、主イエスのように祈ることができる。そこで主ご自身の祈りの秘密をも知ることができるのです」(p.17)
「私たちは神に受け入れられている。それが出発点なんです。人間の手で世界を、人間の理想に従って変えようというようなことではなくて、神によって人間が受け入れられている。それが基礎なんだ。」(p.39)
「つまらないおしゃべりをよそう。霊的生活においても、日常生活においても、どんな歩みをするのにも必要なことは集中ということでありました。」(p.52)
「祈りは私の言葉が響きつづけるところではありません。むしろ、私は沈黙し、神が語り始める。髪の言葉が響き、私を占領する。それが祈りです」(p.69)
…心に焼きついた言葉を並べていたらきりがないんだけど、何度も読みかえして、自分の祈りの足場を固めていきたい、と思います。