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2006/05/30(火) 02:00:31 [キリスト教]

 先週の土曜日は教会の草取りをやった。前回サボったので(というか完全に忘れてた)、今回はまじめに参加しました。連日の雨のせいで草が伸びまくってたけど、20人くらいで抜きまくったら、たいぶきれいになりました。2週間もすれば、元の木阿弥なんだろうけれど。

 教会によっては、こういう奉仕への参加を厳しく指導されるところもあるらしいけど、うちの教会は幸いにもそういう指導がないので、かえって気楽に参加できます。時間に余裕のある熟年層が多いので、奉仕の手に困らないってこともあると思う。

 ただ、こういった奉仕は、いわゆる「教会生活」の一部なんだろうか?と、ときどき疑問に思う。草取りやバザーや会堂の掃除、あるいは懇親会や茶話会といったものが「聖徒の交わり」なんだろうか?もちろん、それらは人間の集団としての教会の役には立っていると思うけど、聖書が示す「キリストの体である教会」と関わりがあるとは、どーしても思えないんだよな。

 「聖徒の交わり」は、人間同士のつきあいではなく、必ずイエス・キリストを経由したつきあいになるはずなんだけど、具体的にどういう形のつきあいになるのかがよくわからない。礼拝は聖徒の交わりというよりも、神様と聖徒たちとの交わりだもんな。

 これは、まだ想像の範囲なんだけど、「イエス・キリストを経由したつきあい」とは「祈りを経由したつきあい」のことなんじゃないか、と思う。掃除であろうが、茶話会であろうが、信徒たちが集って行うのであれば、そこには必ず祈りがなければ聖徒の交わりにはならないんじゃないか、と思う。「祈り」というものについて、まだよくわかってないので、いまひとつ自信がないんだけど、極端にいうと、草取りであっても祈りが伴うべきなんだと思う。

 だから、いまは「祈り」がどういうものなのか、という基本的なことを勉強中。物理的に考えても、言葉の意味から考えても、神の世界は人の世界は完全に断絶しているはずなんだけど、「イエス・キリストを経由した想い」=「祈り」だけは2つの世界をつなぐことができると思うのです。

 祈りについては、また別に記事を起こします〜。

Comment

ちょびっと参考意見
>草取りであっても祈りが伴うべきなんだと思う
なかなかナイス・ポイントを突かれているのではないかと思うです。小さな奉仕でも祈りに始まり、祈りに終わるようにするのは、その奉仕自体の目的も見誤る危険を軽減すると思うし、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」にも通ずるものかと思います。公然とお祈りをして始めないと、「聖徒の交わり」にならないとは限らないとは思いますが、小さな奉仕にも与れることを神様に感謝するのはとても良いことだと思いますです。
「聖徒の交わり」の一つのあらわれとして、奉仕を通してキリストの身体を構成する教会員同士が使え合うのはとても理に適ったことだと思います。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」フィリピ2:6-8
とも書かれているからです。

また、「神の世界と人の世界が完全に断絶」していたのは、アダムたちが罪を犯した後から、キリストの贖いがなされる前までと考えた方が良いのかなと考えます。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」からです。(ガラテヤ6:14)

断絶からの回復が完全に明らかに現されるのは、「歴史を通して」「時間をかけて」「教会を通して」というのが神の摂理のようですが。。。
ありがとうございます〜!
 コメント、ありがとうございます!&祝ペンテコステ〜!(^_^)

 教会生活は相変わらず続けているんですが、「聖徒の交わり」に自信が持てなくて、教会の群れから心が離れつつある状態だったので、ケンケンさんのコメントを読んで、とても心強く思いました。ありがとうございます。

 教会の奉仕や、自分の仕事のひとつひとつに祈りを意識して生活していきたいと思います。また祈りを支えとして、仕えあう関係というものを探していきたいと思います。ほんとに手探りですけれどね。

>また、「神の世界と人の世界が完全に断絶」していたのは、アダムたちが罪を犯した後から、キリストの贖いがなされる前までと考えた方が良いのかなと考えます。

 ガラテヤ書の聖句は、なるほどそういう意味なのですね。キリストの十字架は、神と人とを結ぶ鉄橋のようなものなんでしょう。それは決して朽ちることない唯一の橋。祈りの中でもそれを意識していきたいと思います。

 断絶からの回復は、キリスト者が自らの生活を通して世に示さなければならないんでしょうね。神への祈りを通して世に仕える…う〜ん、いまの私には、それがどんな暮らしなのか、想像がつきませんね〜 (^_^;)

 更新さぼりがちですが、また見てください。ありがとうございました〜 (^_^) > ケンケンさん

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