キリスト教と信仰について学んでいると、信仰の学びの道にはいろんな落とし穴があることに気がつきます。
祈りを通して神様を働かせようとする。祈りの言葉で自分を飾り、信仰のない人を見下す。自分のエゴや愚かさから生まれた苦しみを信仰者の試練と取り違える。自分や他人の行いを信仰心の深さを測るものさしにしようとする。聖職者や先輩信徒をあがめてしまう。逆に聖職者や先輩信徒に反発して、独自の信仰の道を歩き始めてしまう。イエス・キリストではなくナザレのイエスをあがめてしまう。教会やイエス・キリストを通すことなく個人的に祈るようになる。奇蹟そのものに心を奪われて、奇蹟が示している存在を見ない。知識や言葉にとらわれて、それらが表現している存在から遠ざかってしまう。自分を強めたり他人を責める目的で聖句を引用してしまう。
いずれもありふれた罠だけど、学べば学ぶほど、こういう落とし穴に出会うことも多くなります。主イエスの歩まれる道筋がはっきりと見えていれば、そういった危険からも離れていられるんだろうけれど、わたしは幾度も穴に落ちそうになりました。
こういう穴から身を守るガードレールみたいなものはないのかな、と、思っていたのですが、最近になってようやく大事なことに気がつきました。とても単純で基本的なことなんだけど、けっして忘れてはならないこと。
それは、自分はアダムとイブの罪によって神から永遠に切り離された存在であること。もう神を目にすることはできないし、神の御旨(みむね)を推(お)しはかることもできない。神に語りかけることも神の御言葉を聞くこともできない。祈りや学びや行いを通して聖(きよ)くなることもできない。どうがんばっても自分も他人も救えない。一人では立つことすらできず、一人では主イエスの後姿すらみつけることができない。
謙遜ではなく、まったくの事実として「わたしは罪人です」と認めることができれば、神様へ続く道は主イエス・キリストの他には一本もない、ということがはっきりしてくると思うのです。祈るときも学ぶときも助けるときも助けられるときも御言葉に耳を傾けるときも、わたしは主イエス以外の方法を持たないわけです。また、どんなに罪にまみれた人でも、どんなに汚れにまみれた教会でも、主イエスを通してもたらされる恵みと憐れみは、われわれを聖(きよ)めてくださいます。
自分を小さなものである、と認めることはなかなか難しいことです。自分を塵に等しい存在である、などと考えるのは、なにか暗くてネガティブなこと、前向きじゃない、って思う人もいるかもしれない。でも、どんなにみじめでみすぼらしくても、それがありのままの自分の姿なんだと思う。神から切り離され罪にまみれた孤独な存在。たぶん、それが原点。
その原点を忘れないように歩いていけば、いずれ主イエス様の後姿がぼんやりと見えてくるんじゃないか、と思っています。