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2006/05/05(金) 03:41:17 [キリスト教]

 先日、ネットラジオ(FEBC)を聞いていたら「主イエス・キリストは生ける神の御子なのです」と断言した牧師の言葉に打たれて信仰の道を歩みはじめた、というエピソードを聞きました。聞き流してしまいがちなエピソードなんだけど、この話に登場する牧師の確信の力強さは半端なもんじゃないと思う。

 こういう力強さって、どこから生まれてくるものなのか、よく考えてみると不思議です。キリストは生きておられる、という信仰の事実は客観的事実ではないし、理詰めで説明できるものでもない。かといって個人的な思い込みでは、人の生き方までも変えてしまう力強さは生まれてこないと思う。「わたしがそう思うからそうなんだ、わたしにはそれがわかるんだ」といった話では他人は動きません。

 そういう信仰の礎、確信、あるいは信仰の芯のようなものって、どこから生まれてくるんだろう、ってずっと思ってました。クリスチャン・ホームで育ったり、何十年も教会生活を送った人なら、そういう確信が宿る(?)のかな、と思っていました。

 うちの牧師先生や伝道師の先生にも尋ねたんだけど、明解な答えはなく、このところずっと心に引っかかっていました。そこには必ず「私」自身の主体性と神の存在という2つの要素が必要であることはわかるんだけど、どう考えても信仰の土台となるような確かなものは、この世には存在しないし、もしそのようなものがあったとしたら、それは神の超越性や絶対性を否定する要素になるわけだから、存在するはずもないわけです。

 それでも、この考え方をさらに押し進めるのなら、人は知恵を持ってしても、想いを持ってしても、神の技を理解することも説明することもできず、願いは通じず、涙はかえりみられず、あるのはただただ深い断絶だけ、ってことになると思う。いや、神のあわれみはあるはずなんだけど、人はそれを理解できないと思う。そして、すごく逆説的な言葉になるけれど、その神と人とのどうしようもない断絶、完璧な隔たりを自分自身の問題としてきっちり受け入れたときに、ただひとつの希望=イエス・キリストが一本の道として見えてくるんじゃないかと思う。

 神と人との隔たりは、学問的な仮説でもなく、文学的な物語でもなく、他人の悩みごとでもなく、まさに自分の身の上に起こっている事実なんだ。それは、ほんとに絶望的な話だけれど、たぶんこれは誰にとっても事実なんだろう。どのような言葉を持ってしても、知恵を駆使しても、どんな祈祷や儀式や生贄をささげても、われわれは神様の技などひとつたりとも理解できないはずなんだ。

 ずっと長いこと「祈り」の方向というか姿勢ってものがつかめずに悩んでいたんだけど、それは神に直接話しかけようという傲慢さが邪魔していたのかもしれません。神様との隔たりに気づいて以来、急に救い主イエス・キリストの輪郭がはっきりしてきたように思います。救い主以外に信仰の支えとなるものは、この世になにひとつないのでしょう。

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