今週の木曜日は最後の晩餐がおこなわれた洗足木曜日、そしてきょう金曜日はイエス様が十字架にかけられた聖金曜日です。
1年半前、洗礼をいただいた頃は、いずれの出来事も自分からは縁遠い出来事のような気がしていました。人間的な尺度で考えると、現代の日本に住む日本人である自分にとっては、2000年前のイスラエルに暮らすユダヤの人々よりも、自分の通う教会の牧師・伝道師先生や諸先輩方の方がずっと身近で信仰の導き手になってもらえるような気がしていたのでした。
しかし、いまはずいぶん物の見方が変わりました。人間的な尺度は信仰にはまったく役に立たないこと、同様に人間そのものも信仰の支えにはならないことを知りました。もちろん教会の先生や先輩方は尊敬に値する立派な方々なのですが、それでも神と主の前にあっては一介の罪人に過ぎないのでしょう。
以前、ある教会の掲示板を読んでいたら、教会の人々を非難する意見に対して“人を見ればつまづきます。上なる方を見つめましょう”という返事が書かれていました。いま思うと、あれはほんとうに重い言葉でした。
そして、いま復活祭を前にして聖書を読んでみると、奇妙なことに、以前は縁遠く感じていたユダヤの人々―ナザレのイエス、マリア、ペテロ、ピラト、カイアファ、トマス、といった人々の祈りや苦しみや怖れ、悲しみをとても身近なことのように感じている自分に気がつきます。それと同時に、自分の通う教会の先生や先輩方の存在や言葉、教会の中で起こるさまざまな出来事が、自分の存在も含めて、とても小さく遠いもののように思えるのです。
教会から距離を置くつもりはぜんぜんないんだけど、どうやらわたしは教会の人間的な要素について急速に興味を失いつつあるようです。また自分の個人的な信条やこだわりも、どうでもいいような気がしてきました。これが信仰的によいことなのかわるいことなのかは、よくわからないんだけど、う〜ん、これも進歩のひとつなのかなぁ (-,-)?