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2006/02/02(木) 03:20:24 [キリスト教]

 小田垣雅也氏は「キリスト教の歴史」のなかで「西方神学が主知主義的、倫理的であるのに対して、東方神学は神秘主義的、形而上学的であると言われる。」と書いておられます。正教の教えに接する機会がないわたしには、この言葉がなかなかピンと来なかったのですが、ニコライ堂でいただいた説教の写しには正教の教えの特徴が見事なまでにあらわれていました。

 説教は、ダニイル府主教による「第31主日」〈祈り〉と題されたもの。ルカ18:35-43のエリコの盲人の祈りを題材に、祈りについての御言葉が書かれています。
 ここでの盲人は主―ハリストス―神の力という信に成満した姿である。「イイスス、ダヴィドの子、我を憐れめよ」は、この信仰告白である。主が彼の祈願を受け入れたのは、盲人の祈りは主―メシア―ハリストスと云う信に一貫しており、この人の祈りは全ての誘惑と敵対的意見等を超えていたからである。
 ここで、盲人の姿勢を見習おう。盲人のように考え方を一筋にすることは、何と恵まれることか。盲人は非常な努力を持って生きて来た筈である。これは私たちに祈祷において試練されているのである。

 そして、“祈祷と条件”という段落には、空想や邪念に惑わされないこと、心底に神への畏怖があること、注意力を集中させること、神の前での謙遜とへりくだりの姿勢を忘れないことが望ましい祈祷の姿として説かれています。わたしの属するプロテスタントでは、こういう具体的な祈りの方法についての話は聞いたことがないので、とても新鮮に感じました。これらの条件には、自己の内面に向かいあう瞑想や座禅のような雰囲気を感じます。

 ついで、正教の信徒に望まれる祈りの態度として、自分の生についての反省を起点とし、教会を通して、神との和解を得て、真の謙遜を身につける道が説かれています。
人間が「祈る」行為を始める時、第一にたましいの救いを目指すようになる。たましいの中に蠢く汚物を清め、良心を澄ませるのである。地上での人間の必要な態度は祈りを通じてであり、全てのあなたの必要物は与えられる。主が己の十字架(受難)を前にしての言葉「謙遜性」を指している。

 プロテスタントの人々には「主イエスの御名によって」の言葉通り、イエス様を介して祈りを神様に届けてもらう、というイメージがあります。また、みずからの罪や穢れは十字架の贖(あがな)いによってのみ清められるものであり、みずからの力では聖なるものに近づくことはできない、と考えているので、上の段落を読んだときは、けっこうびっくりしました (^_^;)

 けれども、いままでの自分の祈りを振り返ってみると、祈りというよりも「神様へのお願い」といったレベルのきわめていい加減なものだったような気がします。それは、神様や主イエスに対する自分の姿勢から生まれたものではなく、教会や本でおぼえた言葉をつなぎ合わせただけの祈りではなかったか。そこに、自分の生き方に対する悔い改めはあったのか。そこに、神や主イエスに自分のすべてを預けるような信仰はあったのか。 …自問自答してみると、やはりいままでの自分の祈りは底の浅いものであったように思います。

 たとえば、目がみえるようにしてほしい、という盲人の祈りは、言葉だけを追えば、わたしの祈りと同様の「神様へのお願い」にみえるけれど、彼にはまず「わたしを憐れんでください」という主への呼びかけがあります。この、憐れんでください、という言葉の中に正教の人々は「謙遜性」「痛悔心」と呼ぶ姿勢を見いだしているのです。いままでのわたしの祈りの中に、そのような謙遜があったか。自分の罪とはかなさをかえりみて、主の憐れみを乞う気持ちがわたしの中にあったのか。

 たぶん、祈りとは考えるものでも理解するものでもなく、言葉や知識で組み上げられるものでもなく、神と主イエスの前で自分自身の存在を問い直す、という行為からはじまる行為の積み重ねなんじゃないかな。行為によって意味や効果が生まれるのではなく、祈りという行為そのものに人間的な理解を越えた意味が含まれているんじゃないかと思います。

 祈りには、讃美、感謝、願い、告白、とりなし、といったいろいろな祈りがあるそうです。様々な人々の祈りにふれつつ、自分をかえりみることで、自分の願いだけにとどまらない祈りができるようになればいいな、と思います。

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