仕事で都内に出かけたついでに、神田のニコライ堂(東京復活大聖堂)の朝の礼拝に出席してきました。
朝7時に御茶ノ水の宿を出て、まだ雪の残る道をてくてく聖堂まで歩きました。門をくぐって庭に立ち、大聖堂をはじめとする建物の立派さに見とれていると、別棟の小さな聖堂から僧衣に身を包んだ聖職者のみなさんが出てらっしゃいました。朝の礼拝の前に早朝のお勤め(?)でもあったんでしょうか。「朝の礼拝に出たいんですけれど…」と申し出ると、大聖堂の中の右手にある小さな礼拝室にこころよく招いていただきました。
礼拝室は幅3間、奥行き4間ほどの広さをもつ天井の高い部屋です。部屋の奥と手前は真鍮のような骨組みをもつ木の壁で2つに限られ、その壁には主イエスを始めとして聖女聖人の姿(イコン)がていねいに描かれています。いくつかの窓からは朝の光が射しているのですが、天井や壁から吊られた燭台からは赤い蝋燭の光が聖画をやわらかく照らし出しています。
やがて聖職者のみなさんが集まって扉が閉じられました。主教らしき方と2人の聖職者の方は木の壁の両端にある扉を開けて、部屋の奥の祭壇のスペースに行き、手前右には祈祷書を開いた司祭らしき方が立ち、手前左には2人の聖職者の方が立ちました。唯一の一般人であるわたしは、作法もよくわからないので、小さな声で主の祈りをつぶやいてから聖書を胸に部屋の隅の邪魔にならない所に立ちました。このときは椅子がないことを不思議に思わなかったのですが、もともと正教の祈りは立って行うものなのだそうです。
やがて7時半になると、祝祷と共に礼拝が始まりました。祝祷といっても、すべての言葉にメロディがついているので祈りというよりも美しいチャント(詠唱)のように聞こえます。そして1人の方が祈りを唱えている間にも、別の方が異なる旋律で次々に呼びかけるように詠唱していくので、オペラのようでもあり、輪唱のようでもありました。聖書はマルコの11章を読まれたのですが、これにもすべてメロディがついていました。
前段の祈りが終わると、部屋を区切っていた木の壁の中央にある扉が開かれ、奥の祭壇に祈る聖職者の姿が現れました。彼は香炉を揺らしながら手前のスペースを清めてから、日本語と外国語を織り交ぜた祈りの言葉を唱えはじめました。あとでうちの教会の牧師さんにうかがったところ、たぶん外国語とはロシア語だろう、とのことでした。
祈りは30分ほどで終わりました。祭壇へむかう扉は閉じられ、蝋燭は消され、祈りの場は香炉の香りだけを残して、再び静けさを取り戻しました。
礼拝の様子を細かに書いてみたのですが、わたしにとって印象に残ったのは、やはりひとりひとりの祈りの姿勢でした。そこには長い歴史の中でつちかわれた複雑な様式があり、メロディがあり、何よりも情熱的な祈りがありました。
祈りとは何なのか、どのような祈りを神から求められているのか、を考えているわたしには、今回の礼拝は貴重な経験になったと思います。まだ、祈りの意味するところすら、よくわかってないんだけど、たぶんプロテスタントの祈りについて考えるときにヒントになると思います。
ところで、正教の祈りについてもうちょっと知りたいな、と思いつつ礼拝室を出ると、大聖堂のロビーに前回の説教のプリントがありました。そのタイトルは「祈り」。こういう出来事に会うと「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」って御言葉が身にしみるような気持ちになります。
主イエスの姿を求めたとき浦上の聖堂に導かれ、祈りの姿を求めたときニコライ堂の朝拝に招かれたことも、主イエスの導きなのだと思います。それは、例えでも思い込みでもなく、わたしにとっては単純な事実になりつつあるようです。
説教のプリントの中身については、次回ふれたいと思います。