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2005/12/30(金) 01:26:47 [キリスト教]

 今年の待降節は、わたしにとっていろいろと思うところの多い季節となりました。中でも出張の折りに出会った浦上天主堂のイエス様の像は、像について考えるヒントを与えてくれました。

 待降節の前からわたしは「どうか主の御姿を見せてください」と祈っていたので、浦上のイエス像を前にしたときの感激はひとしおだったんですが、落ち着いて考えると、これっていわゆる偶像礼拝じゃないの?という気がしてきました。

 聖書は偶像礼拝を固く戒めています。わたしの通うプロテスタントの教会にも像はひとつもありません。でも、なぜ像を拝んではいけないのでしょう?…目の前に像があった方が、祈るときも気合いが入ると思うんだけどなぁ。

 そこでパソコンで旧新約聖書(新共同訳)のデータを開いて、偶像に関する場所を探して読んでみました。
 旧約では偶像を異教の象徴として禁じる部分が多く、新約では加えて、目に見えるしるしを求める者、姦淫する者、貪(むさぼ)る者として偶像崇拝者を描いています。旧約の知恵の書では偶像をつくる職人まで引き合いに出して、像の虚しさをとくとくと説いています。
 しかし、偶像の弊害をストレートに書いた部分はありません。それにカトリックや正教の教会には多くの像やイコンがあります。どうやら問題とされているのは、像そのものではなく、像を礼拝する者の心のありかたのような気がしてきました。

 イエス様のいない十字架を前にしたときのわたしの心、十字架に架けられたイエス様の像を前にしたときのわたしの心…その二つの間にどんな違いがあるのか… う〜ん、そんなに違いがあるとは思えないんだけどなぁ。

 あえて違いを挙げるなら、像がないとき、心の焦点は私の心の内にある神のイメージに結ばれていたんだけど、像を前にしたときは目の前にある固有の存在「浦上天主堂のイエス像」そのものに心の焦点が合っていたような気がします。
 わたしの心の中にある神のイメージは御言葉と聖書から生まれたものであり、目には見えませんが、その性質は聖書の記述とも一致するはずですし、教会の人々の間でも共通するイメージであるはずです。
 しかし、イエス像を前にした祈りは、目の前の特定の像に頼った祈り方をしているわけです。聖書や御言葉が戒めている“偶像崇拝”とは、像に祈る行為ではなく、このような目に見える存在に頼り、心の外にある存在を根拠とする信仰のあり方を指しているのではないか、と、わたしは考えます。

 対象が命を持たない木像や石像なら、まだ弊害は少ないかもしれません。しかし、ある特定の人物や、人間が作った組織に依存する信仰を想像すると、そこには宗教の最も暗い面が現れてくるような気がします。
 たぶん、まともな信仰というものは、つねに隣人や一般的な社会の共同体とともに歩んでいく性質をもっていると思います。特定の人物の考え方や組織の利害に依存する信仰は、しばしば信仰をもたない人たちとの間に摩擦や対立を生むはずです。
 また、自分で考えた神の姿も、一種の偶像になるかもしれません。聖書を自分の頭で解釈し、自分の頭で想像した神の御心を語ることは、手作りの神の像に言葉をしゃべらせるようなものです。そこには自分の意志のもとに神を使役しようとする人間の姿が見えるように思います。わたしが気をつけるべきなのは、こちらの方かもしれません。この投稿だって、ある意味、自分流の神様の解釈が行われているわけですし…。

 では、わたしは神に祈るとき、何を頼りにすればよいのか、何を根拠に神の御心を思えばよいのか… そこまで考えて、地上の人間にとってイエス・キリストの存在が神へと通じる唯一の道であること、聖書という本が天の国への唯一のガイドブックであることに、ようやく思い至りました。

 聖書には、偶像についていろんな御言葉が書かれています。きっと、もっと深い意味が幾重にも折りたたまれているのだと思います。たぶん、わたしがそれに気づくのはずっと先の話。いまは、主イエスの存在の意味を教えていただいたことに感謝したいと思います。

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 ※この項、書いては消し、消しては書いて、書き上げるのに三日もかかってしまいました。ほんとに難しい問題ですねぇ、偶像って (@_@;)

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