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2005/12/19(月) 04:33:01 [キリスト教]

 きょうの成人科は、ラース・ビハリ・ボースの思想を通して、多様性をまとめる東洋思想と、多様性の存在をみとめるアジアの考え方を学ぶ、という話。ボースといえばチャンドラー・ボースしか知らなくて、"中村屋のボース"もチャンドラーの方だと思っていたら、別人だったのね (^_^;)

 アジアの思想は、多様性を認める多神教の文化として、しばしばキリスト教やイスラム教と比べられるけれど、実際にはそんなに単純な話ではないと思う。

 一神教の神は全能であり万物の創造主だけれど、多神教の神々は創造主ではない。では、多神教の神々を産み出したのは誰なのか?

 アジアにおいては、自然が創造主ということになるんだと思う。アジアに限らず、エジプト、古代ヨーロッパ、インド、南米、中南米、アラスカ、シベリアなどの地域にも、さまざまな多神教が生まれたけれど、それらの神々の背景には常に豊かな自然がありました。太陽、月などの天体、海、山、川のような自然の存在、火、風、土、水のような自然の元素、風、暑さ、寒さ、洪水、地震、雷、日食などの自然現象、そういう目に見えるもの、この世界に属するできごとから生まれてきた神様が多神教の神様だと思う。

 でも一神教では自然よりも、さらに上位の存在を考えた。それが、世のすべてを作りたもうた創造主、ということになるんだけど、これを突きつめて考えると、一神教の神様は、この世界に属さない存在だ、ということになる。だって創造主が創造主を生み出すことは、どう考えても無理なんだから。

 だから一神教を信じる人々は、意識的にせよ無意識的にせよ、この世界のさらに外の世界、この地に属するものには絶対に知ることのできない世界を見つめていることになるわけです。

 そういうふうに、一神教と多神教の神様は、そもそも属する世界がまったく違うし、一神教の神様がとても観念的な見ることのできない存在であるのにたいして、多神教の神様は地上で共に暮らし目に見える存在なんだから、数の対比で両者を比べるのは、あまりにも短絡的だと思うのです。

 …なんてことを考えながら、成人課の授業を受けました。う〜む、けっこう楽しい。

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 朝拝は、マリアの祈り(マニフィカート)に関するところ。イエス・キリストがわれわれ罪人を救うために使わされたことを、マリアの目、ヨセフの目、そしてキリスト教徒の目から、どのように見るのか?という御言葉をいただきました。

 わたし自身は、いまだイエス様の存在や内なる聖霊の力というものがよくわかってないので、このアドベントの季節の説教は、やたら耳が痛いっす。難しいなぁ。

 礼拝後は、礼拝のテープをダビングしたり、来週のカセット・ラベルをつくったり、ぱたぱたと働く。韓国からのお客さんもいらしたので、互いに日韓英のチャンポン言葉で話す。これって英語で話すよりも難しいっす。先日は、ラーメン屋を探していた韓国人のカップルを道案内したんだけど、女性の方が英語がしゃべれたので、わたしのデタラメ英語でもちゃんと会話が成立して助かったっす。

 わたしの住んでいる町は、もともと韓国や中国の人が多い町なんだけど、きっちりテリトリーが分かれていた昔に比べると、最近は韓国や中国の人が日本人のテリトリーに積極的に混じってきている感じ。外交や経済の変化が街中でもはっきりと感じ取れるようになってきましたね〜。

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 ところで、土曜日は壮年会のクリスマス会だったんだけど、すっかり忘れていた。いや、意図的に忘れていたのかも (^_^;) 本気で出よう、って思ってなかったんだろうな。他の用事はぜんぶ覚えてるんだから。わたしは、いまだに聖徒の交わり、というか、人間どうしの交わりがどうも苦手なのです。人間は地上でもっとも残忍な獣だと思っているもので… (^_^;) もちろんわたし自身もね

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