
きょうは長崎出張の最終日。昼で仕事が終わったので、思案橋でトルコライスのハンバーグ版(フリカンデルトルコ)を食ってから、電鉄で松山町の浦上天主堂まで足を伸ばしてみました。
教会は、火傷の跡の残る天使や聖人たちの像に守られて、みぞれ混じりの風が吹きすさぶ浦上の丘に建っていました。もっと慎ましく穏やかな建物を予想していたわたしは、まずその雰囲気の激しさ、厳しさに強い印象を受けました。
パイプオルガンの奏でる降誕の讃美歌に迎えられて入った薄暗い聖堂は、たくさんの聖像やフレスコ画がステンドグラスに彩られた西陽に照らされて万華鏡を覗いたような美しさでした。
そして正面には巨大な十字架に架けられた“あの方”がいらっしゃいました。その姿はは人の手になる像とわかっていても、わたしにとっては、あまりに痛々しく畏れおおい御姿でした。ずっと祈っていて、それでも会えなくて、いまようやくお会いできた、という気持ちでした。
プロテスタントの身でありながら、そういう気分になるのは妙なものですが、聖堂の空気は信仰をもつ者の心を激しく揺さぶり共鳴させる讃美歌のような力強さに満ちあふれていました。
小聖堂の被爆のマリアにも会いました。御顔に残る火の跡は、原爆の苦難に会われた方の痛みや苦しみをわたしに語ってくれました。どんなに熱かったろう、どんなに痛かったろう、どんなに辛く寂しかったろう。
帰り道は、冬の荒天にそびえる教会を振り返りながら、浦上の信徒がたどった「旅」を思いつつ歩きました。
きょうは、信仰という行為が本来もっている強さと激しさを改めて目撃したような一日になりました。