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2005/12/04(日) 23:34:54 [キリスト教]

 クリスマスをひかえた待降節(アドベント)の第2週。説教壇にも、それを示す蝋燭が2本ともされています。

 成人科の授業は、救いの自覚について。出エジプト記の中で神様は「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」と、おっしゃっています。洗礼を授かれば救いを約束する天の書に名を記されるのだろうか?主の十字架のあがないを頂けば、誰でも救いが約束されるのだろうか?救いの自覚とは、そして信仰との関係とは、という点について話しあいました。

 礼拝は、降誕(クリスマス)を前にした心構えについて。わたしは、クリスマスどころか、自分の中でのイエス様の位置付けもしっかりできていないので、心構えといっても見当がつきません。受洗して2回目のクリスマスだけど、わたしにとっては昨年に引き続き、イエス様と自分との関係を学ぶクリスマスになりそうです。

 ところで、きょうの祈祷の中でも何度か人間の恐ろしい行いについてのとりなしが祈られました。幼い子どもの命を奪ったり、同級生や親を残酷な方法で殺す事件が毎週のように起きています。それらが悪魔の力によるものなら、まだしも理解できるのだけど、いずれも人間の仕業です。信じられないような邪悪な行いも、天使のような慈しみも、人間の中にはあるのです。そして、それらは、きっと私の中にもあるのでしょう。

 わたしは小さく非力な存在だから、どんなに残酷な事件が続いても何の力にもなれないけれど、願わくば、誰もが自分の痛みよりも先に、他人の痛みを思いやれる社会になってほしいと思います。道徳とか宗教とか教育とか、そういう話の前に「彼はどんなに痛いだろう」「彼女はどんなに苦しいだろう」「あの子はどんなに寂しいだろう」「あの親はどんなに悲しいだろう」ということに思い至れる力の方が人として大切だと思います。

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