--/--/--(--) --:--:-- [スポンサー広告]

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2005/11/28(月) 23:08:48 [キリスト教]

 気がついたら、教会の記録をずいぶんサボってました。備忘録なので、自分さえわかってればいいんだけど、書きとめた方が御言葉をしっかり受け止められると思うし、なるべく書こうっと。

 先日の成人科は聖書からちょっと離れて、梅原猛の随筆「反時代的密語」(2005.11.15 朝日新聞)を題材に、悲しみを根本感情においた日本的ロマンティシズムというものを考えながら西田哲学を考えてみよう、という内容。新カント学派やフッサールの現象学は人間の理性を軸とした哲学だけど、理性は人間の本質の一面に過ぎないのだから、人間の内面の生命をもとらえたロマンティシズムの要素が必要ではないか、という話でした。う〜む、むずかしい。1時間の講義では、なかなかわからない話なので、帰ってから復習しようっと。

 礼拝の御言葉は、終わりの日に対する心構え。その日がいつ来てもよいように、日ごろから心がけていなさい、という御言葉でした。御言葉としては聴き慣れた内容だけど、いざ実践できているか考えると、備えているとはいえない日々を送ってます。“放縦や深酒”はしていないけれど、身を律する生活とはいえない生活をしてますから。だから、私にとっては、ちょっと怖い御言葉でした。そもそも、まだ私にとっては、どのような生活が御心にかなった暮らしなのか、それさえもわからないので、いま終わりの日がきたら、呆然とするしかないっす。

 少なくとも、あと5年くらい待ってもらえないかなぁ… (-.-;)

-----

 ところで、きょうは礼拝の録音係でもあり、入院中の方を元気づけるためにクラシックのCDをダビングする仕事もありました。いずれも、礼拝に出られない人のための奉仕であり、伝道のひとつでもあるんだけれど、そういう作業の忙しさにまぎれて御言葉に集中できないのは、ちょっとつらいっす。いろんな奉仕の仕事も大切だけど、礼拝の時間は御言葉だけに集中したいっす。

 こういう悩みは信徒なら誰しも持っているようで、先日FEBCを聴いていたら、自宅で落ち着いた祈りができる一人暮らしの人がうらやましい、という所帯持ちの方の便りが読まれていました。なるほど〜、そうだよな、家族がいると、なかなか落ち着いた祈りの時間がつくれないもんな。

 足りない時間の不平ばかりいっていないで、与えられた時間を恵みとして祈りを捧げなきゃいけないな、と思いました。

Comment

Post Comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

トラックバックURLはこちら