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2006/08/01(火) 04:08:16 [うだうだ]

A Scanner Darkly フィリップ・K・ディックの小説には、映画化不可能でしたが映画化してみました、みたいな作品が多い。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」「変種第二号」「追憶売ります」「マイノリティ・リポート」…いずれの映画も、小説とはまったく別の主題を描いているところをみると、映画化不可能のレッテルはかなり正確なんだと思う。(「にせもの」を映画化した「クローン」だけは例外)

 たとえば「アンドロイド…」には、神の本質を理解しようと苦闘するアンドロイドと、神に救いを求めつつ神を含めたあらゆる希望から隔絶された人間との、まったく救いのないふれあいがユーモアたっぷりに描かれている。

 また「変種第二号」では、人間化してゆく機械と機械化してゆく人間が同居する世界の滑稽さが、恐怖とミックスして絶妙な味わいを生み出している。

 そんな屈折したテーマを映像化したところで、ショッピング・モールの映画館に来ている客が喜ぶだろうか?そもそも、そんな映画を配給したい酔狂な会社があるだろうか?

 だから先日「暗闇のスキャナー」がワーナーから配給されることを知ったときは信じられなかった。この小説には薬物中毒患者と捜査官と売人しか出てこない。そしてテーマは「痛み」だ。

 ある者はささやかな快楽を求めて、ある者は捜査情報を手に入れるために、またある者は商品として、薬物に手を伸ばす。得られるものは、いつもほんのちょっぴり。でも支払わなければならない対価は残りの人生すべてだ。これは因果応報の物語ではない。ささやかな行為が信じられない悲劇をもたらす − 登場人物たちは、人生がもたらすそんな普遍的な闇の中にひとり、またひとりと消えてゆく。それが「暗闇のスキャナー」のテーマだ。

 痛みの塊のような話だけれど、私はいまもこの小説を読み返しつづけている。どうひいきめに見ても、名作や傑作の部類には入れてもらえない小説だと思うし、自分でもどこがいいのかわからない。でも何度読んでも飽きない。自分の中では「暗闇のスキャナー」はゴールディングの「蝿の王」と同格なのだ。

 ああ、信じられない。あの小説が映画化されたなんて。死ななくて良かった。映画の出来はともかく、とりあえず見なくちゃ。

 調べてみると配給元はワーナーはワーナーでも、Warner Independent Pictures という独立系映画専門の配給チャンネル。なるほど納得。福岡でもミニ・シアターでの公開になるだろうな。日本ではいつ公開になるんだろう?楽しみだなぁ。

 ちなみに私の中ではドナはジョディ・フォスターのイメージだったんだけど、この映画ではウィノナ・ライダーが演じるらしい。ちょっとシャレにならないキャスティングですな (-u-;)

2006/07/29(土) 06:37:00 [うだうだ]

 今月はブログの更新をすっかりサボってしまいました (^_^;)

 今月は、仕事では出張がメイン、ネットではデジカフェという出会い系のサイトをメインに活動しておりました。

 出張は、九州一円に広がる外食チェーンの支店を回ってネットワークの設定をやる仕事。回線を切り替えて、結線を変更し、新しいアカウントをつくって権限を切り分け、セキュリティ関連のソフトのインストールと設定を行いました。移動は大変だったけど、いろんな町でいろんな人に会い、仕事の上でも学ぶことが多かったので、有意義な1ヶ月だったと思います。

 出会い系の方は、まったくの気まぐれで見たデジカフェというサイトの仕組みが面白くてハマってしまいました。男性会員からは単なる出会い系サイトに見えるんだけど、女性会員からは良くできたアフィリエイト・サイトになっている、というところが面白い。女性会員は男性会員とチャットしたり、メールを交換したりするとポイントが加算され、換金することができる一方、男性会員は逆にポイントが減算され、ポイントを買わなければ活動が続けられない、という仕組み。

 この手の商売では、素人の女性会員がなかなか集まらないので最初からサクラを仕込んでから始めるものだけど、このデジカフェでは女性会員の活動にポイントを設定することで、サクラのいらないシステムを目指してるようです。

 また、このサイトの会員の活動の中心が無料のブログにあることも面白い。ブログを読めば相手の人となりがわかるし、他の会員に自分の個性をアピールすることができる一方、サクラは手間のかかるブログを嫌うので、サクラに対する圧力にもなっているわけです。

 このブログは表と裏の2種類があって、裏ブログには表では禁止されているエロ話が書けるので、性的な話を嫌う女性は表の方だけを読めばいい、というのも良くできています。

 でも半月もやったら飽きてしまいました (^_^;) 無料のブログは面白いので、まだ続けているんだけど、メールやチャットはお金がかかる割には手間ばかり増えるので面倒になってしまいました。サクラも皆無ではないし。

 というわけで、8月はこっちのブログに軸足を戻してネット活動を再起動しようと思ってます (^_^;)はは

 信仰活動のほうは、教会通いは相変わらずです。聖日礼拝+バザー委員会とか説教テープづくりなど、地味に活動してます。

 出張の際には、地元の教会の祈祷会にも参加させてもらって、とっても助かりました。出張中はひとりで祈ることになるんだけど、共に祈る機会があると勇気づけられます。宮崎県宮崎市の清水町教会、鹿児島県鹿児島市の加治屋町教会のみなさんには、ほんとにお世話になりました。感謝です。

 聖書通読は、いま列王記の上巻。ダビデ、ソロモンの栄華も今は昔、イスラエル王国は分裂して、人々は偶像を礼拝しています。人の栄えのなんとむなしいことか (T-T)

 副読書としては、伝道師先生に薦められたフォーサイスの「祈りの精神」を読んでます。これは、めちゃめちゃ面白い本。誤った祈り、欺瞞的な祈りを痛烈に批判しながら、神にピントを定めた正確な祈りについて論理的に語っています。あまりにロジカルなので、抵抗を覚える人も多いと思うけれど、祈りについて迷っている私のような初心者信徒には、たいへん良い祈りの手引書です。“宇宙の母国語は祈りである”というフレーズには驚きました (^-^)

 この本の出版社であるヨルダン社は解散してしまったそうですが、取次に、まだ在庫があるようなので興味がある人は早めに注文しましょう (^-^)

2006/06/30(金) 00:33:44 [うだうだ]

 友人から「このブログはお祈りの話ばっかりでつまらん」という感想をいただいた。いわれてみれば、たしかに最近まじめな記事が多いな。というわけで、今日はひさびさにのんびりした話を書くっす。

 先日、派遣会社の担当から「サーバの設置やりませんか?」と声をかけられた。「IBM?DELL?」と尋ねると「いや、ビールのサーバ」との返事。冗談かと思ったけどマジでした。面白そうな仕事だったので受けましたよ(^-^)

 翌日、マニュアルと本体の入った箱をもらって現場に向かう。けど、なんかおかしい。

 生ビールのサーバといえば、上に冷蔵タンク、下にバルブのある金属製のラックみたいなもので、けっこう重くてかさばるはずなんだけど、俺の持っている箱はあまりに軽くて細長い。マニュアルを読むと本体には照明用のランプと金属製の皿とボタンが一個あるだけ。タンクもバルブもない。いやぁ困った、俺はこれからまったく正体不明の機械を設置しにいくのだ。たぶん派遣会社の担当者もわかってない。かといって元請に電話して「これなんですか?」と聞くわけにもいかない。こりゃハッタリで押し切るしかないな。

 現場に入ると、さっそく店の責任者の方から古い機械を見せてもらった。よくわからないけど、とりあえず調子が悪いようなので「う〜ん、これは交換した方がよろしいですね」などといって、さっさと交換する。

 んでマニュアル通りに交換して謎の金属皿に水をそそぐところまでやったんだんだけど、肝心の使い方が書いていない。展開センターに電話しても「現場の作業員の方が説明した方がよろしいと思いますよ〜」という素晴らしい答え。空気読めよ!(-.-;)

 もうしょうがないので開き直って「では動作テストをお願いします」と店長さんに言いました。すると店長さんは慣れた手つきでグラスにビールを注ぐと、水を張った金属盤にグラスを置いてボタンを押した。

 …次の瞬間、ビール全体に無数の泡が現れて、それが集まってクリームのようななめらかな泡の層を作り始めた。…そうか、こいつはビール・サーバじゃなくてビールの泡を立てるための機械だったのだ。

 俺はにっこり微笑みながら「あ、問題ありませんね」といって、そそくさと古いマシンや工具を片付けて、書類にサインをいただき、店を後にした。

 時計をみると1時間しか経ってなかったけど、すげ〜長い1時間だった (@_@;) スリル満点の1時間でしたよ〜

2006/06/17(土) 02:39:08 [キリスト教]

黙想と祈りの手引き

 加藤常昭氏の「黙想と祈りの手引き」をようやく読み終えました。

 私は、以前から、祈りについて強い関心を持っていて、出張のたびに土地の教会を訪れ、いろんな方々の祈りの姿に接してきました。しかし自分の祈りは依然として、教えられた祈りの言葉を呪文のように繰り返す空虚な祈りになっているような気がしてなりませんでした。

 バスで1時間あまりの場所には黙想の家もあり、以前から行ってみたかったのですが、いまの自分では、言葉だけ形だけの虚しい祈りを繰り返すだけに終わるのではないか、と思い、まだ一度も訪れていません。

 私が知りたいのは、祈りの言葉や様式ではありません。言葉や様式を生み出した源である(主イエスを含めた)キリスト者たちの先達の信仰が知りたかったのです。

 この本は講演録として出版されたのですが、私にとっては祈りのトレーニングのための本でした。祈りが観念ではなく、人が神様に対してできる唯一の“物理的な”働きかけであるならば、祈りにもスポーツと同様の修練が必要だと思ったのです。

 そして、この本は期待通りの本でした。かつて、自分の願いをかなえるための祈りしか知らなかった私にとって、とても厳しい指摘がたくさんありました。

 「皆さんが主の祈りを弟子として祈る時、主イエスのように祈ることができる。そこで主ご自身の祈りの秘密をも知ることができるのです」(p.17)
 「私たちは神に受け入れられている。それが出発点なんです。人間の手で世界を、人間の理想に従って変えようというようなことではなくて、神によって人間が受け入れられている。それが基礎なんだ。」(p.39)
 「つまらないおしゃべりをよそう。霊的生活においても、日常生活においても、どんな歩みをするのにも必要なことは集中ということでありました。」(p.52)
「祈りは私の言葉が響きつづけるところではありません。むしろ、私は沈黙し、神が語り始める。髪の言葉が響き、私を占領する。それが祈りです」(p.69)

 …心に焼きついた言葉を並べていたらきりがないんだけど、何度も読みかえして、自分の祈りの足場を固めていきたい、と思います。

2006/05/30(火) 02:00:31 [キリスト教]

 先週の土曜日は教会の草取りをやった。前回サボったので(というか完全に忘れてた)、今回はまじめに参加しました。連日の雨のせいで草が伸びまくってたけど、20人くらいで抜きまくったら、たいぶきれいになりました。2週間もすれば、元の木阿弥なんだろうけれど。

 教会によっては、こういう奉仕への参加を厳しく指導されるところもあるらしいけど、うちの教会は幸いにもそういう指導がないので、かえって気楽に参加できます。時間に余裕のある熟年層が多いので、奉仕の手に困らないってこともあると思う。

 ただ、こういった奉仕は、いわゆる「教会生活」の一部なんだろうか?と、ときどき疑問に思う。草取りやバザーや会堂の掃除、あるいは懇親会や茶話会といったものが「聖徒の交わり」なんだろうか?もちろん、それらは人間の集団としての教会の役には立っていると思うけど、聖書が示す「キリストの体である教会」と関わりがあるとは、どーしても思えないんだよな。

 「聖徒の交わり」は、人間同士のつきあいではなく、必ずイエス・キリストを経由したつきあいになるはずなんだけど、具体的にどういう形のつきあいになるのかがよくわからない。礼拝は聖徒の交わりというよりも、神様と聖徒たちとの交わりだもんな。

 これは、まだ想像の範囲なんだけど、「イエス・キリストを経由したつきあい」とは「祈りを経由したつきあい」のことなんじゃないか、と思う。掃除であろうが、茶話会であろうが、信徒たちが集って行うのであれば、そこには必ず祈りがなければ聖徒の交わりにはならないんじゃないか、と思う。「祈り」というものについて、まだよくわかってないので、いまひとつ自信がないんだけど、極端にいうと、草取りであっても祈りが伴うべきなんだと思う。

 だから、いまは「祈り」がどういうものなのか、という基本的なことを勉強中。物理的に考えても、言葉の意味から考えても、神の世界は人の世界は完全に断絶しているはずなんだけど、「イエス・キリストを経由した想い」=「祈り」だけは2つの世界をつなぐことができると思うのです。

 祈りについては、また別に記事を起こします〜。

2006/05/26(金) 02:18:41 [キリスト教]

 夜の祈祷会のあとに時間があったので、レイトショーで「ダ・ヴィンチ・コード」をみてきました。「これからダ・ヴィンチ・コードみにいくんですよ〜」と牧師先生にいうと「批判的にみてくださいね」とクギをさされましたが、ストーリーには棘らしい棘もなく、のんびり楽しめました。ミステリというよりは、ラドラムのようなお気楽アメリカ冒険小説の雰囲気でした。

 でも、もしわたしがカトリック信徒なら、やはりちょっと怒ったかも。聖母その人を攻撃する内容ではなかったけれど、教会と聖母の間にくさびを打ち込むようなストーリーだったもんね。人の信仰をネタにするのは大人のやることじゃないっす。

 映画の中ではいろんな神学論争が戦わされるんだけど、原始宗教の豊穣のシンボルとしての女性と、近代宗教であるキリスト教との対立の話はとても面白かった。

 キリスト教が中東から西欧まで広がっていく間に、バアルやアシュトレトといった自然の神々はことごとく悪魔に名を変えて記録されることになるけれど、日本では政府、国家神道、仏教の圧力を耐えて、まだまだ多くの自然神が生きつづけているのは興味深いことです。

 この映画で描かれる二つの派の争いに理解を示す日本人は少ないかもしれないけれど、自然神の流れをくむ聖母崇拝に共感を覚える人はけっこう多いかもしれないな、と思いました。

 キリスト教をあつかった最近の映画でおもしろかったのは「エミリー・ローズ」でした。たんなるエクソシスト映画だと思って観にいったら、客観的事実と信仰との接点をあつかったすごくまじめな映画で驚きました。カール・セーガンの「コンタクト」と同じテーマですね。映画そのものも面白かったし、あれはほんとに掘り出し物でした。

 あ、それから「ミリオンダラー・ベイビー」もめちゃめちゃよかったっす。単なる感動スポ根映画のつもりで観にいったら、罪の問題が徹底的に描きこまれていて、ほんとに感動しました。あれは泣けましたねぇ、ほんとに。誰かがネットのレビューの中で「パッション」よりもずっと聖書的だった、と書いていましたが、ほんとにそうでしたね〜 (^_^)

2006/05/25(木) 02:59:07 [キリスト教]

 吾妻ひでおの「失踪日記」を読んでいたら、断酒会のシーンで、どっかで聞いたことのあるようなお祈りがありました。

 「神様 私にお与えください 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを 変えられるものは変えてゆく勇気を そして2つのものを見分ける賢さを」

 これはラインホルド・ニーバーというアメリカの神学者の祈りなのだそうです。

 人はしばしば避けられぬ苦しみを与える神に異議をとなえます。あるいは、人の手になる災いやみずからの悪癖や怠惰やよこしまな思いを、神の定めとすりかえようと試みます。わたしも祈りの中で、そういう過ちをいくども繰り返しているんじゃないかと思います。

 しかし、避けられぬ苦しみは神の与えてくださった道なのでしょう。そして、避けうる苦しみは神の力に助けを借りつつも人の力によって除かなければならないのです。

 自立しつつ神の御旨に沿う生き方とは、とても狭く細い道なのでしょう。その両脇には、神に不平不満をいいたてながら自分は1歩も動こうとしない、あの馴染み深い怠惰な日常が口をあけて待っているのです。祈りを通した問いかけがなくては、きっと一歩も進めない道なのだろう、と思います。




ブログを読んでくださってる、うちの伝道師の先生から原文を教えていただいたので載せときます。
THE SERENITY PRAYER - Reinhold Niebuhr
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

serenityって単語、はじめてみました(爆)。distinguishって単語も、すっごいひさびさに見たなぁ。

2006/05/21(日) 02:06:25 [キリスト教]

 聖書のなかで語られる奇蹟として有名なものにイエス様の水上歩行があります。でもキリスト教徒にとっては、これって奇蹟じゃないかも。イエス様を人間と思っている人にとっては、湖面を歩く姿は奇蹟そのものだろうけど、イエス様は神の子なんだから、水の上ぐらい平気で歩けると思う。

 奇蹟と呼ぶならば、弟子のペテロの行動の方が奇蹟にふさわしい。だって、ただの人にすぎないペテロが数歩とはいえ水の上を歩いたんだから。

 うちの近所に大きな池があるんだけど、その水面を見るたびに「ここを歩くなんて無理だよな」と思います。ましてやペテロが足を踏み出したのは風の吹きすさぶ明け方の湖。時化(しけ)た湖が、どんなに簡単に人を呑みこむか、漁師であるペテロなら、よくわかっていたはずです。

 誰だって「人が水の上を歩けるわけない」と思う。そして落ちたら助からないかもしれない、とおびえる。それでも歩き始めたペテロの行為こそ信仰によって導き出された奇蹟だと思います。

 そこまで神と主に全幅の信頼をよせて歩むことができれば、ほんとに立派なキリスト者なんだろうけれど、わたしには、まだまだ真似できそうにありません。「話はわかるけど、現実にそんなことできるわけない」「自分にはできるわけがない」「あれは聖書の中のたとえ話であって、自分の日常でやることじゃないんだ」と思ってしまうのです。

 これが水の上を歩く話にとどまるなら、まだ罪はないんだけど、聖書に書かれたさまざまな恵みや救いや暮らしの規範についても「話はわかるけど、現実にそんなことできるわけない」「自分にはできるわけがない」「あれは聖書の中のたとえ話であって、自分の日常でやることじゃないんだ」などと思ってしまうのです。

 日々、祈りを唱えながら生きているのに、自分のすべてを神と主の前に差し出すことをためらう自分。歩きだすふりをしながら、実際は船にしがみついた手を離すことができない弱さ。たぶん、イエス様に出会う前のペテロも、弱さと罪にまみれた人だったんだろうと思う。

 そういう弱く汚れた人間が、自分の努力ではなく、ただひたすらに神を信じて足を踏み出して歩き始めること。これこそがほんとの奇蹟だと思う。

2006/05/15(月) 13:28:58 [キリスト教]

 キリスト教と信仰について学んでいると、信仰の学びの道にはいろんな落とし穴があることに気がつきます。

 祈りを通して神様を働かせようとする。祈りの言葉で自分を飾り、信仰のない人を見下す。自分のエゴや愚かさから生まれた苦しみを信仰者の試練と取り違える。自分や他人の行いを信仰心の深さを測るものさしにしようとする。聖職者や先輩信徒をあがめてしまう。逆に聖職者や先輩信徒に反発して、独自の信仰の道を歩き始めてしまう。イエス・キリストではなくナザレのイエスをあがめてしまう。教会やイエス・キリストを通すことなく個人的に祈るようになる。奇蹟そのものに心を奪われて、奇蹟が示している存在を見ない。知識や言葉にとらわれて、それらが表現している存在から遠ざかってしまう。自分を強めたり他人を責める目的で聖句を引用してしまう。

 いずれもありふれた罠だけど、学べば学ぶほど、こういう落とし穴に出会うことも多くなります。主イエスの歩まれる道筋がはっきりと見えていれば、そういった危険からも離れていられるんだろうけれど、わたしは幾度も穴に落ちそうになりました。

 こういう穴から身を守るガードレールみたいなものはないのかな、と、思っていたのですが、最近になってようやく大事なことに気がつきました。とても単純で基本的なことなんだけど、けっして忘れてはならないこと。

 それは、自分はアダムとイブの罪によって神から永遠に切り離された存在であること。もう神を目にすることはできないし、神の御旨(みむね)を推(お)しはかることもできない。神に語りかけることも神の御言葉を聞くこともできない。祈りや学びや行いを通して聖(きよ)くなることもできない。どうがんばっても自分も他人も救えない。一人では立つことすらできず、一人では主イエスの後姿すらみつけることができない。

 謙遜ではなく、まったくの事実として「わたしは罪人です」と認めることができれば、神様へ続く道は主イエス・キリストの他には一本もない、ということがはっきりしてくると思うのです。祈るときも学ぶときも助けるときも助けられるときも御言葉に耳を傾けるときも、わたしは主イエス以外の方法を持たないわけです。また、どんなに罪にまみれた人でも、どんなに汚れにまみれた教会でも、主イエスを通してもたらされる恵みと憐れみは、われわれを聖(きよ)めてくださいます。

 自分を小さなものである、と認めることはなかなか難しいことです。自分を塵に等しい存在である、などと考えるのは、なにか暗くてネガティブなこと、前向きじゃない、って思う人もいるかもしれない。でも、どんなにみじめでみすぼらしくても、それがありのままの自分の姿なんだと思う。神から切り離され罪にまみれた孤独な存在。たぶん、それが原点。

 その原点を忘れないように歩いていけば、いずれ主イエス様の後姿がぼんやりと見えてくるんじゃないか、と思っています。

2006/05/05(金) 03:41:17 [キリスト教]

 先日、ネットラジオ(FEBC)を聞いていたら「主イエス・キリストは生ける神の御子なのです」と断言した牧師の言葉に打たれて信仰の道を歩みはじめた、というエピソードを聞きました。聞き流してしまいがちなエピソードなんだけど、この話に登場する牧師の確信の力強さは半端なもんじゃないと思う。

 こういう力強さって、どこから生まれてくるものなのか、よく考えてみると不思議です。キリストは生きておられる、という信仰の事実は客観的事実ではないし、理詰めで説明できるものでもない。かといって個人的な思い込みでは、人の生き方までも変えてしまう力強さは生まれてこないと思う。「わたしがそう思うからそうなんだ、わたしにはそれがわかるんだ」といった話では他人は動きません。

 そういう信仰の礎、確信、あるいは信仰の芯のようなものって、どこから生まれてくるんだろう、ってずっと思ってました。クリスチャン・ホームで育ったり、何十年も教会生活を送った人なら、そういう確信が宿る(?)のかな、と思っていました。

 うちの牧師先生や伝道師の先生にも尋ねたんだけど、明解な答えはなく、このところずっと心に引っかかっていました。そこには必ず「私」自身の主体性と神の存在という2つの要素が必要であることはわかるんだけど、どう考えても信仰の土台となるような確かなものは、この世には存在しないし、もしそのようなものがあったとしたら、それは神の超越性や絶対性を否定する要素になるわけだから、存在するはずもないわけです。

 それでも、この考え方をさらに押し進めるのなら、人は知恵を持ってしても、想いを持ってしても、神の技を理解することも説明することもできず、願いは通じず、涙はかえりみられず、あるのはただただ深い断絶だけ、ってことになると思う。いや、神のあわれみはあるはずなんだけど、人はそれを理解できないと思う。そして、すごく逆説的な言葉になるけれど、その神と人とのどうしようもない断絶、完璧な隔たりを自分自身の問題としてきっちり受け入れたときに、ただひとつの希望=イエス・キリストが一本の道として見えてくるんじゃないかと思う。

 神と人との隔たりは、学問的な仮説でもなく、文学的な物語でもなく、他人の悩みごとでもなく、まさに自分の身の上に起こっている事実なんだ。それは、ほんとに絶望的な話だけれど、たぶんこれは誰にとっても事実なんだろう。どのような言葉を持ってしても、知恵を駆使しても、どんな祈祷や儀式や生贄をささげても、われわれは神様の技などひとつたりとも理解できないはずなんだ。

 ずっと長いこと「祈り」の方向というか姿勢ってものがつかめずに悩んでいたんだけど、それは神に直接話しかけようという傲慢さが邪魔していたのかもしれません。神様との隔たりに気づいて以来、急に救い主イエス・キリストの輪郭がはっきりしてきたように思います。救い主以外に信仰の支えとなるものは、この世になにひとつないのでしょう。

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